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2010年3月22日 (月)

ゴッホ「ひまわり」

損保ジャパン東郷青児美術館

以前、東郷青児について掲載したので、今回はゴッホの「ひまわり」について記載したいと思います。

≪参考≫
「フィンセント・ファン・ゴッホ ひまわり 解説」_発行:損保ジャパン東郷青児美術館
「ファン・ゴッホとひまわり」_ルイ・ファン・ティルボルフ

Photo

ゴッホは、その生涯においてたくさんのひまわりを描いていて、大きく3つの時期の作品にわけることができます。

ひとつめは、
「パリで描かれたひまわり 1886-1887年」です。

1886年3月初め、パリにやって来たゴッホは印象派をはじめとする当時の新しい絵画に接し、その明るさに触発されました。それまで用いていた暗い色が時代遅れであることを感じたゴッホは、自らの作品に明るさを取り入れるために花を集中的に描き始めます。花の静物画は、色合いや構図を自由に組み合わせることが容易でした。花を描くことでゴッホは色彩の研究を試みたのです。
当初、ゴッホの「ひまわり」はこういった静物画や風景画の一部として描かれていましたが、やがて単独で取り上げられるようになりました。

よって、この時期の作品は、水彩画で道端のひまわりが描かれているものもあって、一般的に見慣れている花瓶に入ったひまわりと比べると、軽い爽やかな感じで、新鮮さを感じます。

ふたつめは、
「アルルで描かれたひまわり 1888年」です。

1888年2月、ゴッホはパリから南フランスのアルルに移り住みました。ここでゴッホは画家仲間たちと共同生活を計画し、その舞台であるアトリエをたくさんの「ひまわり」の絵で飾ろうと考えました。
1888年夏、まず青い背景に黄色いひまわりを描いた3枚が、そしてすぐ後に黄色い背景に黄色いひまわりを描いた4枚目のひまわりが完成しました。
完成した4枚のうち2枚のひまわりは実際に、ゴッホが敬愛するゴーギャンの部屋に飾られたといいます。損保ジャパン東郷青児美術館のひまわりは、ゴーギャンの部屋に飾られていた1枚です。
希望に満ち溢れているこの時期のひまわりが、一番生命力に溢れています。

最後は、
「アルルで描かれたひまわり 1889年」です

ゴッホとゴーギャンという個性的な二人の画家の共同生活は1888年12月、わずか2ヶ月で終わりを迎えました。
ゴーギャンとの関係は日を追って悪化し、精神的に追い詰められたゴッホは自らの耳の一部を切り取り入院、この事件を機にゴーギャンはアルルを去りました。
1889年1月、ゴーギャンからゴッホに、ひまわりの絵が欲しいという内容の手紙が届きました。その時すでにひまわりに愛着を抱いていたゴッホは、その申し出をいったん断っています。しかしゴーギャンがひまわりを認めてくれたことを名誉と感じ、そして自ら傑作と認めていたひまわりを選んだゴーギャンの鑑識眼に敬意を表し、ゴッホは夏に描いたひまわりを元にして、ゴーギャンのために新たなひまわりの複製を政策することを手紙の中で伝えています。
その時描かれたひまわりは、1888年に描かれたひまわりよりまろやかなタッチで描かれています。

ゴッホの絵は、ゴッホ美術館の“ルイ・ファン・ティルボルフ”さんが、「これはゴッホの絵」と認めないと、正式にゴッホの絵として認められないそうです。損保ジャパン東郷青児美術館のひまわりは、他の人が描いた疑惑があったそうですが、2001年にティルボルフさんに再鑑定を依頼し、正式にゴッホの絵として認められているそうです。
損保ジャパンがこの絵を購入した時期は、日本はバブルの真っ只中で、この絵以外にもたくさんの名画が購入されたそうです。
しかし、そのほとんどがいまでは転売されてしまい、現在、その時期に購入された名画で、日本に残っているのは、このゴッホのひまわりだけ。と、言われているそうです。

ゴッホが生き生きとしたひまわりを描いた、南フランスのアルルの地に行ってみたいです。

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